エンジニアなので,日記の始まりは常に"hello world"から始まるべきだと考えている.
モノを書くという取り組みは既に何回にも渡って実践され,そして悉く失敗している.振り返ると,小中学生のころは新品のノートを買っては新しい何かを書き始めるのが好きだったし,いわゆるネット小説を書くのに傾倒していた時期もあったし,はてなブログ,note,しずかなインターネット,Qiitaなどなどなど,ありとあらゆるところに私の考えを書き溜めては放流を繰り返してきた.
私の考えに対して価値があるのか,それは読者諸賢の何某かに依存するだろうが,少なくとも未来の私や後述するような未来に存在するであろう私でない私にとって価値があるだろう.例えば,私の心根を最も直接的に叩きつけていたのはnoteだったが(そしてその多くは非公開だが),そこを見ると当時の自分の精神を推し量ることができてとても楽しい.そして,そのような思考の軌跡を描いて今の自分があるのだとすると,過去の自分に対する空虚さ(現実感の欠如)が薄れ,実態のある連続体として自分が見えるようである.
私は何となく自我というものが薄いように感じている.なんとなしの情動・記憶・信念はあれど,いまいちど自分が何たるかを説明せよ,自分が何へ向かうのかを説明せよ,と問われれば苦しい.しかしながら,齢も重ね,幾ばくか重要な岐路に立たされていることは承知である.きちんと生きるんだ,と覚悟を決めつつも,のらりくらりと生きている自分に対して,このままではよくないという不安を感じている.その不安はおそらく,自分自身が「私」を捉えられておらず,言い表すことができていないからである.端的に言えば,自己理解が不足している.
このようなモノを書く行いは,徹底して理解のためにある.何かの対象についてよく理解しようと試みるとき,私はよく言語化する方法を知ろうとする.それはA is Bという綺麗な形ではなく,A is not BやA is similar to Bの形かもしれない.だけども,そのような言葉を尽くして対象に迫る姿が美しいと思うわけである.
昨今のインターネット上(もしくはより広くデジタル空間上)の物書きは人間ではなくAIエージェントであろう.彼らは私たち人類ではとても適わないような速度でモノを書き連ねるので,記事の数や文字数では到底,太刀打ちできまい.だけども,私は上に書いたように,自分というものをより深く理解するため,自分のことや自分の知っていることをこうして赤裸々に書き連ねることで達成しようとしている.したがって,AIエージェントらと何かの生産性の対決をするわけではない.
そのため,私という存在をすくすくと文章の中に宿らせながら成長させ,ここに将来出来上がるのは,私という存在が残す思考の軌跡であり自由帳だ.私と働く誰か(人間かもしれないし,AIかもしれない)がこれを読んでくれたら,私が話すよりも繊細かつ詳細に私を理解できるかもしれない.私はそれが楽しみで,今日も筆を執るのかもしれない.